私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレス(2017'11月迄)から自己破産→人生再生中←今ココ)

丸い地球の中に上も下も無い。

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無事に帰宅しました。私の身を案じて下さる方々へ向けて毎日書こうと思っていたのにごめんなさい。


私は「人の上」という言葉が好きじゃなくて「上に報告」という日本語に常に疑問を持ってしまう。「下の人間」という日本語も大嫌い。

やさぐれてる訳では無く専ら楽しい時間と辛い時間を同時に経験出来ている私です。どの人も環境事情は違っても今の私のように苦楽と日々共存してるんだなぁってしみじみ感じています。器用に生きている人もいればその共存にモヤモヤしている人も居て。今の私は後者。


あのね。ここ最近はちょっぴりブルーだったからって理由も手伝って色々な方のブログを読めていないんだけど。実は私が色々な方のブログをしっかり読めるようになったのはほんの数ヶ月前からでした。それ迄の私は内容をがっつり読み取って頭に入れていなかったように思う。それは私の脳のレベルもあるだろうけど電車の中で見かける雑誌の見出しを読むような感覚。私とは無縁な遠い人達で遠い所の話という感覚に近かったかも。


それが此処へ来て私の書く言葉を一生懸命に読んで下さる方が存在している事を今更ながら強く感じるようになった。心配なのは私の書く文章で心を痛めたり苦しくなったり重く感じる人が居ないかどうか。そして今は私の経験が誰かの為になるとは考えられなくなっています。理由は似た環境事情があったとしても私と全く同じ境遇で同じ環境状況や思考なわけでは無いと理解したから。以前は私の経験が誰かの役立てるなら。そう考えていた事を恥ずかしく思う。烏滸がましいにも程があった。本当にごめんなさい。


いつ頃からだったか?ブログの中にある言葉を深く読む機会が増えていました。ある方のブログ。とても素晴らしい内容が書いてあるんだけど「読む人達が皆同じ境遇で皆同じ環境にある人ばかりでは無いでしょう?」という想いが私の心に生まれてしまい読めなくなった。


誰かの為を思う素晴らしい内容なのにその方は人生の全てを悟ったように人の上から言葉を発しているような解釈になって見えた。多分だけど人に寄り添った言葉が無いような私の勝手な思いが芽生えてしまったのだと思う。でもね人の為を思って言葉に出来る方は素晴らしいし素敵だと思ってる。そしてとても多くの方がその言葉に「ありがとう」と言ってるように見えた。

読めば読むほど私の心の奥にモヤモヤが残って。どうにかして深読みせず純粋にその方の文章を読めないものだろうか?きっと今の私はひねくれてるに違いない。そう思ったけどやっぱりダメで。誰の為でもなく自分自身の為に読むのをやめてみる事にしました。

モヤモヤしたのは以前の私に重ねて見えたからかもしれない。私はこれまでしてきた自分の経験をブログに書く事で誰かの役に立てると思っていたから。それがぞっとする程恥ずかしい気持ちになって何と烏滸がましい私なんだろ。そう思った。まるで人の上に立っているかのような言葉。何より人に寄り添うという事の難しさ。気持ちはあっても文章にする事で事実や想いが伝わらない事が沢山あるのに。


嫌なら読まないで。そんな無責任で身勝手な自分でした。言葉が時に暴力になると自分の経験から思い知っていたはずなのに。100人友達できるかな。その言葉と真逆の心の中で100人も友達なんか出来なくてもいい。そんな私の醜い上から感覚が許せなくなった。本当に恥ずかしい自分が見えた。1人大切な存在があれば私は幸せだと思っていたから。

100人居て100人が私と同じ考え方であるはずが無いように100人居て100人が同じ境遇な訳が無い。どうしてこの大切な根底を考えていなかったのだろう。何を書いてるのかよくわからないけど恥ずかしい気持ちになったという事なのです。


私の書く文章で傷ついたりモヤッとしたり。そう感じた人達の貴重な時間を無駄にしてしまったように思う。本当にごめんなさい。私はまだまだ自分自身のことでいっぱいいっぱいなのだと思い知った。他人の苦しみや幸せ感覚は周囲にわからない事がいっぱいある。

人の幸せだけを見ていたい人。人の不幸ばかりみたい人もいる。誰かの為に自分が力になりたいと思える人も実在してる。人にはその人にしかわからない辛さや幸せがあって。私の為に「応援してる」と言葉にして下さる存在はお金では買えない程の奇跡。そしてもの凄く嬉しい。

「貴重なお時間をありがとうございます。」という言葉があるでしょう?私がある時から頭に置いてきたのは時間は戻らないから貴重なのだという事。例えば私の為に1分をかけてこのブログを読んで下さる方。その人の人生の中の戻ってこない貴重な1分を私の為に使って下さっているって凄い事だと思う。

時間はお金で買えないけど仮に1時間働いて時給2500円貰うとしたら1分で約42円(厳密には違うけど)を払って損してしまうかもしれないのに私のブログを読む時間に費やして頂いている事になる。感謝の気持ちと申し訳ない気持ちが混在してしまう。

「ネガティブな事を考える人を近くに置くな。ポジティブな人とだけ接した方がいい。」こういう言葉を読んだり聞いた事ありませんか?私はこの考え方を悪いとは言わない。自身が弱ってる時には居場所を選んだほうが良い事もあるから。ただ私はネガティブな人だろうとポジティブな人だろうと社会に居て不思議だとは思わない。

人を選んで付き合うという事は人の上から人を見下してる人。そんなふうに感じる。自分に関わる人を何らかの枠や年齢,国籍,宗教,ジェンダー,ステータスで選び区別する人。その生き方は幸せですか?自身の思考を押し付ける理由は無いと私は思っています。他人が感じている負はうつりません。自身の想いの核がしっかりあれば。これが私の考え方。

私がノーベル賞を貰って有名人になったら近寄ってくる人は多いはず。私がホームレスになったら離れていく人も多いはず。

私の思う幸せとは。今日動いてくれる体があって笑い転げる自分がある事。生きていると色々あるけど私は幸せです。何に感謝をするかと言うと自分の体と自分自身が生きようとする思考がある事。今日も元気に行ってきます!どのお方も良き週でありますように。

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