私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

それぞれの立場

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考えさせられた犠牲者と被害者と加害者のこと

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故が起き犠牲者となった2人の命を絶対に無駄にしないと懸命に闘ってこられた方の言葉はどれも一生忘れない。日本社会に「上級国民」という言葉が生まれた事件でした。同時に日本社会全体がこの事故に意識を向けた裁判でした。加害者は交通刑務所行きが決定しました。それでも被害者の家族の心情として大切な2人の命が戻ってこない事を許せる日はこないかもしれません。

れぞれの立場でそれぞれの感情と常識と感覚で長い時間が過ぎました。高齢者の事故として終わらなかった理由として多くの国民の関心と感情が無関係では無いと思えました。私は高齢の両親がどんなものなのかがわかりません。ただもし仮に自分の親が車を運転して事故を起こした本人だったと考えた時。2人もの大切な命を奪った罪として刑務所へ入って刑を償って来る事は当然。生きて交通刑務所を出れるかはわからない。それを覚悟で「当然だ」と自分は言うのかどうかの答えが出ないままです。控訴せず刑執行を受け入れた加害者とその周囲の家族達へ向かって引き続き投石する人がいるとしたら切ない気持ちになる私は間違っているのだろうか。

し私が大事な家族の命を奪われた家族だとしたら。立場も感情も意識も目的も違う交通事故裁判。私には家族は娘だけです。もし娘が他人によって命を奪われたら同じ苦しみを与えたいと考えるかもしれません。逆に私が高齢者になって交通事故を起こした時。娘は私に対して何と言うのだろう。想像でしかないですが自分が高齢者で事故を起こしたなら現実を認めて心から謝罪に歩むと思う。この交通事故で多くの人を傷つけた最大の理由は目の前の現実を認めなかった加害者の言動が原因だと思う。心から謝罪をする術を知らないまま生きてきた人なのかもしれないと想像しました。裁判の判決が出たが手放しで大喜びする人が1人もいない事件に感じるのは私だけだろうか。


最近の事故の中で最も切なくなった例

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害者になるか被害者になるか。わからない明日という将来のこと。誰も責められない悲劇だと思いました。私も歩道を歩く機会はあります。もし私が運転中に意識を失う程のことが起きた時。次の瞬間には加害者になる可能性があるという事。タクシーの上の部分が赤く点滅していたら緊急SOSだという事を知らない人の多さに驚きました。元々は車内で強盗などがいた時に外部に知らせる為のものです。私は車の免許を日本で取得しましたがカナダで運転をしていました。私はカナダと日本で運転をしていて1度もクラクションを鳴らした事がありません。それで不便に感じた事はありません。仮に信号で止まって前の車が発車しなくても鳴らしません。急いでいても気長に待つだけです。これはカナダでは自分の身を守る為だと覚えていました。

ラクションを鳴らすとしたら命に関わるような時だけ。「危ない!」と知らせたい事が起きた時だけで良いのです。「急げとか行け」で鳴らす事は大間違いです。特に東京では驚く程日常でクラクションを耳にします。仮にお仕事であろうと車を運転していてイライラする人は乗らないで。そう思うのです。論外ですが運転している時に気が大きくなる人をたまに見かけます。車は徒歩より絶対的に速いです。だから急ぐ必要はありません。自分が加害者になるか被害者になるか。家族が投石される立場になる可能性もある事。運転する人は自分の1分後は見えない事をどうか忘れませんように。

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