私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

人の名前と顔が覚えられない病気

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私は人の名前と顔が覚えられない

もしここを読んで下さる方の中で共感して頂ける、又は「同じ!」という方がいたら、私が完結にまとめられず伝わり辛い文章でも理解して頂きやすくなるかも。
今日これを何で書こうとしているかと言うと。
私の日常の中には、色々と不便な事があるのですが。その中でもナンバー3の中に入っている事がこれです。決して命に関わる事ではありません。なのでどうにかはなっています。職場の人達の名前と顔が覚えられない事は本当に不便です。何しろ相手は私の名前をちゃんと覚えて下さって、顔も覚えて下さっているわけですから。申し訳なさすぎる。距離が遠く離れていても私の名前を呼ばれると「誰!?」と驚く事がいまだにあります。久しぶりに会っても名前で呼ばれると、純粋に有難いです。

に意地悪な事を言う人だったとしても、私の顔を見分けて「名前」で呼んで下さる事は実は凄い事なのです。逆に私は日常にメモが欠かせません。何月何日。何曜日。どこで、どんな話をした人(○△さん)かを書くわけです。さすがに目の前で書けない時は、忘れないうちにメモります。顔の特徴がわかりやすいと思ったら、それを書いたりもします。残念ながら私には絵心が全くと言って良い程なく、似顔絵を描くという手段はありません。残念ながら私が名前と顔をはっきり忘れず覚えられるのは、良くも悪くも私の「心」に入ってきた人だけになってしまいます。
何と都合の良い生き物なのでしょう。ただし苦手な人だけ顔と名前を覚えられないというわけではありません。

この状態を上手く説明出来ないのですが、要はとにかく毎日のように顔を合わせる職場の人の名前と顔が覚えられないのです。制服が私と同じ人なら同じレジの人なのだという認識。幸い私の職場ではネームタグがあるのでそれが良い角度で視えたら「ラッキー」となります。視えない時はひたすら、思い出せないままで話しながら探ります。役立っている事はひたすら連続発射の笑顔です。名前と顔を覚えたり思い出す事に必死になっていると、相手との話がさっぱり頭に入ってきません。本当に面倒な頭です。

えなくても良い事をもの凄くリアルにクリアに覚えてしまう引き出しが私の頭の中にはあるようで、それが役立つ時もあります。だから常に引き出しの中は整理整頓されていないと、最悪です。間違って違う引き出しから話を出してしまうと悪夢が出てきます。
たまに、「歳を重ねるとTVで誰を観ても同じ人に見える。」と言う方がいらっしゃいます。「街を歩いていても皆同じに見える」とか。
この感じ。私もすごく理解出来ます。
でも、私が日常で不便に感じている事は、これとは明らかに違う不便な状態です。
以前、何の映画だったかドラマだったは忘れたのですが、自分の夫の顔がわからなくなってしまう女性がその日のネクタイの色や柄を絵に描いて見分けるというシーンを観た事がありました。私の場合は限りなくこれに近い!そう思いました。(ひつこいようですが絵は描けません)

から3年前迄は私はスーパーのレジとは無縁の仕事ばかりしていました。セキュリティカードネームの無い職場は最悪。ただ更に最も私にとって悪夢だったのがセキュリティの厳しい職場で、どこもかしこもが網膜スキャンだった会社でした。全員が同じに視えるという海の沖に1人流されたような感覚を毎日経験していたように覚えています。職場が変わったり、どこへ行っても私は名前を覚えてもらう事が多く、「あなたの名前はえーっと・・・」と言われた経験がありません。小学生の頃は休んでいても気づかれなかったのに。働くようになってからは「どうかどうか私を覚えないで」といつも下を向き心の中で叫んできたように思います。

でもね、考えると名前を呼んでもらえるという事は有り難い事だなぁと思うのです。仮に意地悪な事を言われるとしても「おまえ」とか「あんた」とかより「○○さん」が最初に付いてると、良くも悪くも私を意識して言ってる言葉だとも受け取れるから。
今の職場のスーパーのレジ仕事で、名前と顔を覚えていないせいで究極に困った!という場面にはまだ遭遇していませんが騙し騙しでどうにかこうにか?日々成り立っているので、どうかこの平和な頭で続きますように。と祈る他ありません。あとはひたすら笑顔発射です!今思えばですが下を向いて歩いていると目立つのですね。自分が前を見て歩くようになってから気づきました。下を向いて歩いている人がいると何気に目に入ってきます。

を認識出来ない病気で困っている人は意外にも世界中でも少なくないと聞いた事があります。私の場合はとにかくメモです。書いたメモのページがすぐに出てこないという、最悪な事もたまにあるので、帰宅したらどっと疲れます。人の名前と顔を覚える為には、復習、予習も必須です。正直仕事を覚えるより大変な作業です。
私も始める前には思っていたのですが、レジの仕事は簡単そうに見えるのですが想像以上に複雑です。でもその複雑さの数百倍のエネルギーを使うのがこの人の名前と顔を覚えるという作業です。

私はきているんだなぁと実感出来る事は日常に沢山あります。人によって「笑い」の点は違うのかもしれませんが自分が愉しい、面白い、そう思える事を探し始めると、さっきまで悲しかったり辛かったりした事が何だったのか?忘れる瞬間がきます。私から見ると、皆が器用に生きていると思う事のほうが多いですが、人には向き不向きがあったり好き嫌いがあってこそが自然だと最近改めて思うのです。同じ親から生まれて同じように育てたられたはずの兄弟姉妹でも性格や行動が違うように。
ごく最近、私には発達障害があるという事を伝えた人がいます。その人は「障害かあ、そういう言い方もあるんだろうけど個性だとも受け取ってみては?」と言って下さいました。その人は、私を傷つけまいとの優しさからこの言葉を下さったのだと思います。私は障害という言葉には個人的な想いがあって、「障害」という言葉は自分から他人に発してる言葉ではなく、自分が自分へ向けて「不便」だと感じる事があるという意味だと。日常生活で障害があるという言葉で時と場合よっては、自分で自分を守り包む言葉でもあると考えています。

障害というのは、人が決める事ではなく、自分自身が体や心身のどこかに不便を感じる箇所を、時に他者との間でセルフクッション的な役割をしてくれる、そんな言葉にもなってくれる時があると感じています。それは良い意味でです。私が思っているは自分を隠し包むという意味ではありません。自分が誰かや何かの害になっているのではなく、自分の日常にとって不便という事が障害の意味だと理解しています。
障害ではなく障がいと書かれている所や障碍と書かれてあるのも見かける事があります。肉体含め心身に不便を持っている人達は皆が本当にその心遣いを嬉しいと思っているでしょうか。これは私の場合ですが優しさからの心遣いには感謝する事が大半ですが、一人になると落ち込む事もあります。他の人よりも余分にお気遣いを頂いてしまったという点で。前までは申し訳ない、私がいるせいで。本気でそう思っていた頃は日常生活のほぼ全てが負の連鎖でした。

る時から、障害について考え方が大きく変わったとするなら、心身のどこかしらに、日常生活には不便な事が多いというのは事実だけれど、不幸では無いと思うようになった事。見方を変える事で不便をいかにして便利な生活にするのかを考える「経験」が出来ます。共通して人に言える事は「何一つ不自由の無い暮らし」など無いと思っています。それは心身だけでは無いという意味です。これまでも今現在も、日々に不便な事があるとしても、きっとこの経験がどこかで役立つ日や場面に遭遇する事があるかもしれません。
もしかすると、私の経験は一生出番も無く役立たないのかもしれません。ただ思うのは知識に勝るのものは自身の経験だと私は感じています。だから私は自身の心身肉体に不便があっても障害という言葉のクッションで守られているようで有難いと考えるようになりました。自分にしか見えないお守りのような感覚。自分の都合の良い究極なポジティブ思考です。
健康でいるというのは、確かに通院する事なく心身共に何ら問題無しが1番です。ただ私が思うに健康とは自身を大事に想う気持ちを保つ事が出来るか否かなのでは無いかと、以前にも増して最近強く思うようになっています。少し前までは健康とはビタミンをしっかり取って風邪をひかない肉体と精神の強さだと漠然と思っていました。生きているからこそ日々、思考も感覚も変化がありアップデートもされるようです。

本で暮らしていると漢字や言葉の持つ意味や由来を年々考えなくなる事もありますが、私は人より語彙が少ないせいか言葉の意味が理解出来ず、いまだに辞書を見てしまう事があります。辞書の不思議なところは、その時の自分の気持ちや環境からくる精神的な事が違うと同じ言葉で同じ意味が書かれてあっても、受け取り方が違うという事に気がつきました。
あ。今、思い出しましたが。今日は、私が人の顔と名前を覚えられないという話を書こうとしたのでした。今気がつきました。

えっと、こちらからは以上です。
久しぶりにブログをアップ出来たというのに、相変わらずの長文と話があちゃこっちゃへ飛びごめんなさい。最後まで読んで頂きありがとうございます。
感謝。