私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

機能不全家族に不登校の子供の将来

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不登校生だった娘のこと。

まだ私の娘が中学生だった頃の事です。


彼女は不登校でした。




小学生の時には転校を繰り返し途中から海外へ行った後、


中学生になりました。


ある日、


彼女のクラスに教育実習としてイギリス人女性が


1ヶ月程でしたが中学校に入ってきました。


そして英語の授業のあった日のこと。


英語担当の先生と、そのイギリス人の先生が授業が終わった後、


話をされていた時があったそうです。

ただ英語担当の先生がどうしてもイギリス人先生の言葉(会話)を聴き取れず


困っておられた所に娘は偶然近くにいました。

それを見てしまった娘は、


英語担当の先生に何をおっしゃってるのかを日本語で説明したそうです。


何気ない親切心だったと娘は後に言っていました。

そして、ちょっとした事件が起きました。


翌日の英語の授業の日。


英語の先生が「●●(娘)さんは英語が話せるでしょ〜?」


「何かクラスの人達に英語で話してみてよ〜」と言われたそうです。

彼女は後にその時の事を泣きながら私に話をしました。


「もう2度と日本で英語は使いたくない」と言いました。


それから数日後。


彼女は幸いな事に男女関係なく多くのお友達がいました。


廊下で休み時間に、紙で紙風船を作って何人かでポンポン〜として遊んでいたそうです。

その時に通りかかった社会の男性教員の方が


「おい!!●●!!(娘)ここは日本なんだぞ!」


「おまえはわからないかもしれないけど廊下で騒いだり遊ぶな!!」


そう言いながら、


身長が188cmの男性の先生に


娘は制服ブラウスの首を掴まれ上へ持ち上げられてしまいました。


そこを通りかかった違う女性の先生達が止めに入ってその場は終わりました。


一緒に遊んでいた男女数人のお友達達も


みんなでその先生を止めに入ってくれたそうです。

娘は、泣きじゃくって「怖かった」、と気持ちを話してくれました。


そして、その翌日から娘は学校へ行かなくなりました。



入れ替わり立ち代り、クラスのお友達達が心配して来てくれていました。


娘は誰にも会いたくないという気持ちがしばらく続きました。

クラスの子達は、娘を思うあまり、


その社会の先生の授業だけを


ボイコットするという事まで起きてしまいました。

結局、校長先生は来ませんでしたが、


学年主任の女性教諭と担任が謝罪に家へ何度も来ました。


娘は「話をしたくない」と言って玄関には来ませんでした。



そうして、自分の部屋に閉じこもる日が続きました。


食事をしばらくは食べれなくなり本当に心配しました。


昼も夜も目を離せないような状態でした。


夜は娘の部屋のドアの隙間を少しだけ開けてそのドアの所で私は眠っていました。




救いだった事は、我が家に犬くんが居た事でした。


彼女は、犬くんとお話したりしていました。


やがて少しずつ私と一緒に食事も出来るようになりました。


とうとう、娘は中学校3年の卒業式の日まで殆ど外へ出れませんでした。



当時私は、中学校へも教育委員会へも必死で抗議をしました。


校長(女性)が教育委員会とは密接過ぎて、何を言っても


結果的にはダメでした。

何年か前に当時の校長は教育委員会で働いている事を知り怒りが復活しましたが。



転居をして、転校させようかと悩みました。


それでも転居や転校の方法を選ばなかったのは、


娘にはその中学校へ通っていないのにも関わらず、


入れ替わり立ち代り来てくれる男女関係なく友達がいたからです。




ただし勉強だけは、家庭教師の先生という方法を選択しました。


当時の私の収入で、家庭教師のお金を捻出するのはかなり厳しい状態でした。

私が探した先生は、当時大学生で福祉を学んでいる女性でした。


半ば、交通費程度だけで娘の事情や家庭の事情に同情して下さり


週に2度は勉強を教えに来てくれていました。


私は、まず自分の娘が不登校になってしまった時。


何が1番重要で心配だと思ったか?


それは、勉強の遅れや集団生活などではありませんでした。


何よりも大事なのは、娘の命と健康でした。

正直、勉強なんかどうでも良いと思いました。


ただある日、


娘が勉強の遅れを気にしている事を何気ない会話の中で知りました。


それで家庭教師を探すという流れになったのです。



日本で生活をするにあたり、


彼女の知っている海外生活とは真逆に近い習慣が


沢山ありました。


そういう経験をさせてしまった事を親として


悔いた事がいっぱいありました。


海外では、「日本人だという事に誇りを持って頑張ってほしい」と伝え、


日本へ帰国してからは?


「海外での生活を良い経験を持った人間として自分に自信を持ってほしい」と伝えていました。

何て身勝手な親なのでしょう。


彼女は、海外で日本人(アジア人)だからという理由で


何度も残酷な人種差別で沢山傷つきました。

日本へ帰国したらしたで、


まるで外国人のように教員に扱われてしまった事に傷ついてしまいました。


私は親として、娘の人生を大きく変えてしまった事や


1人親の無力さを痛感しました。

親の都合(転勤など)で海外で暮らす子供達は沢山いると思います。


その場合、大きくわけて2つのパターンがあると思います。


会社転勤で海外へ行く家庭の子供達は親に経済的な余裕があります。


帰国しても、私学へ入るか


インターナショナルスクールへ入学させる親御さんも多いと思われます。


私の娘の場合、校区の公立中学校へ入学をしました。


市内でも、私は街の中で、より環境の良い場所を選び


教育制度や校区を選びに選んだつもりでした。

近辺で暮らす子供さん達は、いわゆるお嬢様育ちやお坊っちゃま育ちのお子さんが多く


学校内での同級生同士のイジメなどはありませんでした。


娘にとって、それだけは救いだったと思います。

でも彼女の気持ちは、違っていました。


自分だけがお嬢様ではなく惨めな気持ちだったと私には言い続けました。


もう30歳前になろうというのに同級生達とは今も連絡を取り合える幼馴染のような


そんな存在が彼女にはいます。


確かに、周囲に片親の家庭はありませんでした。


それでも私は娘が将来大人になってもずっと付き合いが出来るような


そんなお友達がいてくれたら。


そう当時は思ってその校区で暮らしていたのです。

学校の中で、教員がそんな事をしたり言ったりするという事は


一切、想像出来なかった事でした。


その暴力的な教員は今も教員として働いています。

娘は、お友達たちに卒業式の前日「絶対に卒業式は来て」と言い続けられた事で


着ていなかった制服を着て、卒業式に出ました。

私は本当に心から嬉しかったあの日の事を今でもはっきりと覚えています。


社会科の教員は私の近くへも娘の近くへも一切近寄りませんでした。


式が終わった途端、他の教員達は門まで生徒を見送っていたのですが、


社会科のその教員と校長だけは雲隠れするかのように一切出て来ませんでした。


卒業式までの間、高校進学の為の入試をどうするのか?


それ以外の理由もありましたが、悩みに悩んで


ある高校へ私が直接相談をしに行っていました。


その高校は是非娘さんに来て頂きたいとおっしゃって頂いていました。


入試を受けられるよう、


高校から中学へ連絡をして頂き、推薦も頂いていました。

娘はその高校の幼稚園へ通っていました。


海外から帰国してから幼稚園の時にお世話になった先生や


知り合いだった中高の先生たちとは面識がありました。


それでも、娘はもう学校へ行きたくないと頑なでした。


もし行く気になっても良いようにと


入試の準備も全てし終わっていたのですが、


どうしても娘は行かないと言い


こうして、彼女の中学3年間は終わりました。



卒業式から3ヶ月程が過ぎた頃。


娘は自分で履歴書を買ってきました。


履歴書はどうやって書くの?と私に聞きにきた時、驚くを飛び越え声が出ませんでした。


生まれて初めてのアルバイトが16歳???


しかも、コンビニでするというではありませんか。

「えー!!」とは言わず、信じて応援する事にしました。


面接の日、娘に内緒でお店の前までこっそり見に行きました。


英語が話せるので助かるという店長さんの一声で


学歴も職歴もないのに合格でした。


そこから1年。


娘は自ら高校へ行くと言いだしたのです。


「学校って何て楽な場所だったのだろうね。」

そう言って彼女は笑顔で照れ臭そうに言いました。


彼女は同級生よりも1年遅れて高校生となりました。


その3年間もずっと色々なアルバイトをしていました。


そして、19歳。

娘と犬くんと私が3人で東京で暮らす事が決まりました。

娘が高校3年間の間にバイトをしていた1つの本社が東京にあり、


「ぜひ、来てくれないか?」と言われた事がきっかけで


私よりも先に就職が決まってしまいました。

彼女は大学へ行くとしたらいつかお金を貯めて


もしもずっと気持ちが変わらなかったら行くと言いました。

そして、その会社の人と今の職場の人が仕事繋がりがあって転職する事になりました。


あれよこれよという間に、


彼女はどんどん私の手の届かないような世界へ歩いて行きました。

自分の子供の名前がTVに出る事が嬉しくて


それまで持っていなかったブルーレイレコーダーを買いました。


電気屋さんへ行って、


あまりにも無知だった私に丁寧に説明してもらったあの日のあの瞬間の気持ちを


今でもはっきりと覚えています。

とにかく録画が出来て1番安いもの。それだけで幸せな気持ちになりました。

古い言葉で言えばミーハーな親だったのだと思います。

娘がどこにいるかわからなくてもTwitterで検索をすると姿を観れたりしました。


TVで彼女のした仕事を観れる事が私の励みになりました。

犬くんと私は娘が24時間忙しい生活に変わってからは、それまで以上に


密接な日々を過ごしていたと思います。


犬くんもきっと当時、何でお姉ちゃんがいない?と、


不思議に思っていた事でしょう。

今日もママだけか・・・・トホホ


って。



はい!!いつもどおり話がどんどん逸れました。(反省)


気をとり直して。

子供が不登校で悩んでいる親御さんはいっぱいいらっしゃると思います。


部屋へ閉じこもったまま、ゲームをしているかもしれず


勉強からはすっかり離れてしまったり。


食事も家族と出来なくなってしまったり。


お友達もいない子もいるかもしれません。


親と会話もなくなってしまったり。


当時、私は全力で●●(娘)を信じ、「信じてる」と口にしていました。

「世界中を敵に回してもママは全力で娘を守る」と娘が幼い頃から口にしていました。


結果的には娘は私を重く感じていた事を後々になってわかりました。

なぜなら、娘は軽度とは言え発達障害やHSP(Highly Sensitive Person)があったからです。


当時、私は娘の障害について認識が甘かったと反省しています。


どんなに後悔しても過去には戻れません。

機能不全家族から生まれる障害の中身は環境が生み出してしまったもの

中には生まれつきの障害も関わってくる事もあると思います。


心が押しつぶされそうになる苦しみの中にあります。

娘が私に対して暴力的な態度や言葉を口にするようになったのは


ここ3、4年前程からだったと思います。


年齢を重ねるごとに彼女はそういう自分に苦しみ、


もがいて悩んでいました。


娘と私は障害の形は違っていても、


生きづらいと毎日思っている娘を見ていると、自分を鏡で見ているようでした。


恋愛をしても、私は一生誰とも結婚をしない、他人と生活はできないと。


負の連鎖を自分で終わらせたいと言うようになりました。

そして「自分はママを苦しめてしまう最低な人間」と泣き崩れていました。

私にもいくつもの障害があります。


目に見える障害では無い分、娘と同様に生きづらい。


私の行動によって娘を傷つけ、娘から絶縁を宣言された時は絶望しました。


それでも生きようと思えたのは家族である犬くんの存在があったから。


後悔をしたくないとの想い。家族であるという想いです。


娘からの絶縁をとかれ、今また娘とは会わなくなってからは


毎日、自分に問いかけてしまいます。

私は自分の娘を「同志」のようにしてしまいました。


考えても考えても答えなど出ないとわかりました。

仮に明日、私が事故に遭遇して?


娘が事故に遭遇して?


その時、2人に一切の後悔はないかどうか?


このまま永遠の別れになっても後悔させないか?しないのかどうか?

「ママが死んだら私は天涯孤独だから生きていても意味がない」というのが


娘の口癖でした。

親戚のいない母娘2人が共依存になってはいけません。


どうすれば、家族としてお互いに良い距離を保てるか。


絶縁を解かれた後は、その事だけに絞って娘との関係を保つよう意識していました。


ごく最近ですが、


ある人から私は教えられた事がありました。

自分が傷つくとわかっていても娘が心配ならあとは私の覚悟だけ。


この言葉の前後には色々あるのですが、


私は「待つ」という答えに近づいてきています。それが


「覚悟」の一部に繋がると思い始めています。


追いかけると逃げてしまう。


これは自然の摂理に思えます。

考え方によっては私は卑怯なのかもしれません。


まず娘の出した考えや行動を受け入れてみようかと。


仮にこれが永遠の別れになってしまったとしてもです。


どちらかが悲しみに明け暮れてしまうであろうと想像できていても。


親は自分より先に子が亡くなる事は自身を引き裂かれるより苦しいと


想像しています。

犬くんが天国へ行ったあと


私は天涯孤独になったと思いました。


それでも生きなくてはダメだ。


そう思えたのは、


他人の私を支えてくれる「想い」「言葉」があったからです。


こんな私でも信じてもらえた事と、信じる事で私は救われました。


きっと今の私や娘に必要な事も、これでは無いだろうかと考えました。

そしてずっと昔に遡って振り返ってみたらそこに沢山のヒントがありました。

娘が不登校になった頃のこと。


娘が15歳でアルバイト先を探してきて面接を受けた時の事。


娘が自らの意思で高校へ行くと言いだした頃の事。


娘が自分の意思で職場を決めてきた時のこと。


成人してからのこと。




親が親として出来る事はきっと子供を信じる事なのだろうというのが結論。




私の頭の中の整理の為に書いたものです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。