私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

毒親の最期に興味は無い

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実母のことを「毒親」と呼んで良いか考えてみるの巻。


私を産んだ母とは少なくとも15年程会っていない。


時々、電話がかかってきていたが最近になって何度目かの着信拒否をした。


この10年の間は特に母の事を考える余裕など


私には無かったと言うのが正直なところ。


それでも時々、母の夢を見たり思い出したりする事がある。


大抵は私から母に対して怒っているか泣いている夢。


最近、


ある方の親御さんが新興宗教に入っていたというブログを読ませて頂いた。


それで、私の母の事を思い出した。


私の母も宗教ジプシーのような人だった。


「新興宗教」にはまっていたような時期もあった。


今思い返してみると、3回や4回では無かったように思い出される。


母は私の父と若くして結婚をし、私を産んだ。


実父は頭の回転が速く、仕事の出来る人だった事を大人になって知った。


父は長男で実家の後継者で裕福な家庭で育った人だった。


男性は女性よりも偉いのだという感覚で育った人だった。


今も生きていれば73歳。


父は、母と離婚後に再婚をして子供も出来た事を知った時には不思議な気持ちだった。


もう会う事もなく、亡くなっても私には連絡が来ない親子関係だけれど、


幸せな老後を過ごしてくれている事を願う。


一方、実母は4人姉妹の末っ子で1番上のお姉さんとは10歳も違っていた。


母のお母さん(私の祖母)が遅くにして出来た子供であった為か


殆ど、10歳上のお姉さんが私の母の世話をしていたと聞いた。


終戦後に生まれた母は、衣食住に困った事のない人でした。


それが結婚して


母の浪費に父がブレーキをかける形で貧困を初めて経験したという事が後にわかった。


恋愛結婚で母は父の言うことには一切逆らわなかった母。


やがて父が浮気をし、家庭内が横に外れて行った時、母は何に依存し溺れたか?


それは「お酒」だった。


私の幼心の記憶には、両親が喧嘩をしているイメージしか無い。


今思えば、酷い実の両親の家庭で12歳まで育ったとしか思えない。





両親がまともに会話をしているという記憶は、2人がパチンコへ行く時。


そして誰かが来て麻雀をしている時。


親戚と一緒に旅行へ行ったりする時。


あとは父が家へ帰ってこない、


母はお酒を飲んでるか、泣いてるかだった。


そういう記憶があった為か?はわからないけれど。


私は大人になってから、


お酒は飲まない、麻雀も、賭け事も、宝くじすら買った事が無い。


何よりも母の吸うタバコの煙と臭いが大嫌いだった。


喘息が酷い私が真横にいても、タバコを平気で吸う人だったから。


とても恥ずかしいけれど私はいわゆる、「母の味」が思い出せない。


私が幼かった頃、麻雀をしている皆が会話する声や音を聞きながら


母の座っているお尻の後ろでよく眠っていた記憶が強烈に残ってる。


大人になってからも、麻雀のあのジャラジャラと混ぜる音が大嫌い。


今は自動で出来るという事を聞いた事があるけれど。

私には一生縁が無い遊びだと思う。


両親の喧嘩は昭和の時代を象徴したような最悪な絵図だった。


父が怒って、家中のものを投げ壊したあと、家から出て行く。


母は大泣きしていたのを子供心に見ないふりをしていた記憶が数え切れない程ある。


なぜか母が可哀想だと思った事が無かった。


成長するに連れて、私は母に無関心になっていった。


ただ、たった1度だけ。


今も忘れない記憶がある。


母を引っ張り引きずりながら家から追い出そうとしていた父に


「死んでしまえ」と私は泣きわめいて言った事がある。


この時の自分の声が今もはっきりと頭にある。


私が20歳になって、父と再会した時に


その時に言った言葉を謝った


父は、ただ黙ってうなづいただけだったけれど、


父もまた、その時の事を覚えていたんだ。そう思った。


私が11歳。両親は離婚。


今となっては理解に苦しむけれど、最後に家族4人で食事へ行った。


父の車から降りる時に、母に言われた言葉は一生忘れない。


(父に向かって)「さようならって言いなさい」



そう母に言われた。


その後、半年を待たずして、


母は私や弟が知らない男性を家へ連れ込むようになった。


母の乱れた生活環境の下で、幼稚園も殆ど行けないままだった弟は


夜は2人で小学校6年生だった私と留守番している事が多くなった。


もうすぐ小学校を卒業だという頃と重なり、校区ではない遠い小学校へ


私は毎日通えなかった。


何よりも昼夜が逆の生活で母が朝、私を起こせない、見送れない。


授業で必要になるような物、


学校へ持って行かなくてはいけない物を買えず準備が出来ない時が多かった。


それまでから元々、小学校の半分以上は毎日通学できなかった。


母が夜中に父と喧嘩していた事が多く、


母は朝起きて私を起こす事も、送り出す事も出来なかった。


子供達が昼夜逆転の生活を過ごしていたのも、今考えると悪夢だ。


私が小学校の頃、殆ど毎日のようにそうだった。


夕方になると担任の先生が授業のプリントを持って家を訪問してくれた。


母は、家から出ようとせず先生には本当に申し訳ないと子供心に思っていた。


やがて、私が知る人がいない中学校へ入学。


弟は、小学校へ入学。私も弟も1学期間だけその学校へ通った。


母は、父の離婚から半年後に再婚した。


私と弟は母の再婚を機に他府県へ転居。


「「お父さん」と呼びなさい」


「感謝しなさい。」


繰り返し、繰り返しそう言われた。


そして、私は


12歳から18歳まで


養父からの性虐待、暴力、暴言を繰り返される生活が始まったのだ。


弟はまだ小学校1年生で、私が守ってあげないといけないと思っていた。


その後の弟の記憶には、本当の父の記憶が無い。


私は、弟に言い続けた事がある。


「親が離婚してるからとか本当のお父さんじゃないからグレたんだね」


「誰かにそう言われないように2人で頑張ろうね!」


実際、弟は横道それる事もなく成長しました。


ただ、


私が18歳で家を出た途端、母と弟は養父から家を追い出されてしまったので


弟は事情も分からず、


とんでもない環境になり可哀想な思いをさせてしまう結果となった。


その頃、弟は中学生でした。


ある日、離れて暮らしていた私は、


養父から家を追い出された母が、


弟の学校へ行く為のお弁当を作っていない事を知りました。


お金を渡し、母にどんなに頼んでも、提案をしても


母は弟のお弁当を3年間の間に1度も作った事はありませんでした。


弟は、そんな母を恨むでもなく、


母を見捨てはしませんでした。


私が今こうして離れて、母とは連絡をせずにいても弟が不定期のようですが


母とは今も行き来をしているという事だけは知っています。


私と弟の人生は別の道を。


その後、私は元夫からの暴力で逃げ回る生活が始まり、本当は母に助けてもらいたいと


心のどこかでわずかな期待があった。


残念ながら、母は私に言いました。


「死ね」と。


そんな母を「毒親」

と呼んでも良いですか?


数年後、母はその事を覚えていないと言いました。


「何年も前のことを言われても私にどうしろというの?」と母は私に言いました。


「そうねそうね、そうだね」としか言えず母と距離を置きました。


忘れようと思えば思う程、


私の日常に「実母」の存在が重くのしかかりました。


だから、私は「忘れよう」と思うことをやめました。


嫌な記憶も楽しかった記憶も、ひっくるめて「記憶」だと思うことにトライしました。


そう考えるようになってからは、少しずつ気持ちが楽になりました。


どんな親でも私が存在しているってことは、ルーツがあるわけで。


私の人生の大半以上は、「平和」とは程遠かったけれど、


「平和」を味わう為の時間が


もしかすると今後にあるかもしれないと


今は両親について、許しの気持ちを少しずつ築いてこれたように思います。


頑張ることもやめて、格好よく見せる必要もなくて、


私の心にある本当の想いだけを元に日々を過ごすとの想いに至りました。


「夢」は持ちつつ、「今」を過ごすことにしました。


遠い将来どころか、「明日」を考えるだけで過呼吸が起きるなら、


「今日」の「今」のことだけで良いんじゃない?


あえてそう考え出すようになってから、


過呼吸を起こしたり、パニックになる回数は目にみえて減りました。


勿論、これは科学的には何の根拠もありません。


たまたま、私がそうなってきた。だけかもしれません。


ただ。


私には娘がこの世に生まれてきてくれた事に心から感謝しています。


私自身、母親として失格な部分が山ほどあった。


彼女の人生を大きく狂わせてしまった事に責任を感じる事も多い。


それでも、娘を大事に思う事に変わりはなく心から愛しています。


でもね、娘はもう大人として、


「個」として歩みだしている事を見れただけで感謝しているのです。


私は「毒親」の元で成長してしまったけれど、


娘に対しては、どうだったのだろうか?


100%私は毒親では無かったと断言出来ない。


ただ、いつか理解してもらえたら救われるなって思うのです。


母親として、必死だった事。


1人で彼女を守ろうとして要領よく生きれなかった私の事。


私が母からされた事で嫌だった事だけは娘に味あわせないと頑張ったと思う。


私なりに。


「親」が完璧では無い事はどこの家庭でも同じだろう。


子供に必要以上に寄生する親がいる事も確か。


私は離れていこうとする娘の手を引っ張る事も、


気をひこうとする事はしないと誓える。


幸せになってもらいたい。


ただただ健康で過ごしてもらいたい。


彼女の選ぶ道で、もしも私が役立てる事がわずかでもあるのなら


私は、その日までにしっかり自分の足で立ち上がって歩いていなくてはと強く思う。


ここで機能不全家族で育った私の毒親話に最後まで付き合って頂き、心から感謝しています。