私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

機能不全家族と瞬間

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夫婦が離婚に至る様々な理由(機能不全家族から家族崩壊まで)





私だけでなく、


離婚という手段を決めた人達は1つの事だけが原因ではなく


最初は1つの事だった事が


少しずつ積み重なってしまい、気付いたら


1人でも2人でも


解決、修復不可能となっていたという人が多いのでは無いかと思っています。



夫婦が修復不可能のままで同じ家で暮らし、その中で



過ごす子供は、その後の人生で



様々な生きづらさを感じずにはいられない場合があるのです。







「離婚」を決意する事になった「最後の瞬間」



人それぞれでしょうが、


「私」の場合は、「温度」でした。






私の娘は、生まれてしばらくしてから気管支炎喘息が始まりました。


風邪をひきやすく、次第には咳喘息となり


1歳になる前からは、


何度も病院と家を行き来するような生活が始まりました。




1歳前の赤ちゃん(自分の子供)が呼吸を自発的に出来なくなるのを


最初の頃は、パニックになっていました。





真夜中、救急車を呼ぶか、


元夫の車で行くかで大騒ぎした事も数えきれないほどありました。





娘が1歳になった頃には、


週の大半を病院のベッドで過ごしていました。




次第にアレルギーのパレードが始まりました。




元夫やその家族は、


それら全てを私の血筋のせいだと罵倒され続けられました。





確かに私は喘息があります。
(季節のかわりめや、精神的なストレスが強くなると今でもでます。)





当時まだ若かった私は、

「自分のせいで娘がいつ死んでしまうかもしれないこんな事に・・・・」



そうやって罪悪感を持ち毎日毎日、呪文のような周囲の声を聞きながら自分を責めていました。






酸素が24時間必要になってしまった娘を見た時、当初は泣いてばかりでしたが


まだ2歳にならない娘がやっと飲み薬と吸入器だけで家で生活が出来るように


なった頃、私の涙をふこうとしてくれた事がありました。




それからは、娘の前では絶対に涙を見せないで頑張ろうと決めました。





彼女は、2歳になっても喘息は酷くなるばかりで入院先の病院と


家の往復ばかりしていました。




そんな中でも、彼女には「幼稚園受験」が待っていました。


今考えても涙が出ます。





喘息の薬と酸素、吸入をしながら、幼児の塾へ通わなくてはならず、


辞める事は、元夫や、その家族が絶対に許してはくれませんでした。






私は、元夫の言われたとおりにしないと殴られる蹴られるを極力

減らしたかった。


怒らせないようにする事ばかりが次第に頭にありました。



その頃、ショックな事が起きました。

娘が入院していた病院の同室の子で

娘と同じくらいの年齢の子がいました。



喘息で呼吸困難になり喉を掻きむしって亡くなってしまった事がありました。



ショックでショックで、その部屋から娘を変えてもらう事になりました。




娘も咳が酷くて息が出来ない状態になると大変だった為に、


私の精神状態まで不安定になっていたかもしれません。




それでも、


私は母親として彼女の前では強くあろうと頑張っていました。





元夫から何をされようが、言われようが


理不尽でも、娘にとってはたった1人の父親なのだからと。


元夫は外面的には良き夫、父親と誰もが疑わないような人でした。


顔だけはあざになる程、殴らないのは、そういう事の為でした。





娘の病気が次々に出るようになってからの医療費は、


当時、私が払えるような額ではありませんでした。



今考えても、当時の私はズルイ母親だったと思います。




娘と離れたくない。


娘には医療の治療が必要。



経済力が必要。



殴られ、蹴られ罵られる事は私の仕事だと思って耐えようと考えていました。




それで娘が生きていてくれるなら。




やがて娘は3歳になり、幼稚園にも無事入園しました。
(今考えても幼稚園受験などどうでも良かった事です)



喘息で夜中に救急へ駆け込まなくてはいけないという日が


週の半分くらいですむようになりかけた頃です。


娘も大変でしたが、私も万年睡眠不足でした。




やがて、


入院も1年のうち、数ヶ月ですむようになっていきました。



そうこうしているうちに、娘は4歳になり、5歳になり・・・・






当時、


私達が暮らしていた場所は、冬になるととても寒い場所で、


暖房は必須でした。





家中を暖かくする為には、暖炉も床暖房もエアコンもストーブもつけ、



お部屋によってはファンヒーターを使っていました。
(あの当時にダイソンがあったなら・・・・・と後に思いましたけどね)





娘の体のことを考えて、


暖かく、暖かくと考えていましたが、


ある時、理由は忘れましたが、


いつもどおり元夫が私を罵倒し始めました。






その日は、娘が風邪をこじらせて熱が出ていました。



熱が下がると咳がひどくなり喘息もひどく呼吸が辛そうでした。



自宅用の吸入を吸引させるには


ベッドに座ることが出来ず、私が抱きかかえて吸入器を口に当てていました。




その時のことです。




「娘の顔に、エアコンの風が当たってる」と元夫が怒鳴り始めたのです。





「エアコンの風が咳を酷くするから、ファンヒーターだけにしろ」と言い始めました。





そのとおりにしないと大変なことが起こり始めるので、


そのとおりしました。




すると、今度は


「部屋の温度が低くなっただろ」と怒鳴り始めました。





その怒鳴り声の部屋の中、


娘は、咳が酷くなり息が苦しそうでした。





私が再びエアコンをつけようとしたら、


走ってきて、娘が苦しんでる同じ部屋の中で、


エアコンのリモコンで殴られ、蹴られ続けました。




寒い真冬に服を全て脱がされ、庭に放り出された事もありました。
(当時暮らしていた家は、無駄に大きく外から中庭は見えませんでしたけどね)





もはや、元夫の暴力、暴言に意味など一切ありませんでした。




こうやってひたすら、怒鳴り罵倒し殴る蹴るが続くのです。






こうして娘が5歳の冬



「温度事件」が起き、



殴られ続け、立ち上がれない程の体中の痛みで倒れている私にツバを吐きかけられた時に



私の頭の中で「最後の瞬間」が訪れました。



その時の気持ちを今もはっきり記憶しています。






「今度こそ命をかけて、娘とここから逃げ出す」と気持ちを固めました。




それからまもなくして、偶然は来ました。





元夫がいつもどおり、朝に運転手が迎えに来て


家を出た時に、忘れ物があったようで


家の中にいたお手伝いの方の2人が


よいしょよいしょと、ガレージまで持って行ったのです。





あとの1人のお手伝いの方は、別のお部屋へ、たまたま行った瞬間がきました。





私は、娘の手を握りしめ


何も持たずに裏口の1つから家の外へ必死で走りました。





全て偶然が重なって出来たわずかな時間でした。




運悪く、12月の寒い時期でした。




娘には近くにあったコートを着せ顔あたりにマフラーをぐるぐる巻きにしただけでした。




私も同様な感じでした。





離婚を決意して、何度も家から逃げ出す事に挑戦していましたが、


何十回も失敗に終わっていた私は、


今度こそ命がけで逃げ出そうと頭で思いました。




「火事場のバカ力」とはあの事かもしれません。



5歳の娘を抱きかかえて走っていました。





離婚を円満にというカップルも多いですが、


当時の私は、夢のような話だと思っていました。





今日私は、


離婚を決意する事になった「最後の瞬間」の日のことを書きましたが、


これは、私の場合のことであって、


人それぞれなのだと思います。




友人でも親子でも夫婦でも、


「コレ」という瞬間がきたら、


それまで張り詰めていた気持ちや


無意識にそれまでは流そうと思ってきた事が


一気に山積みになって訪れ、目にみえ崩れる瞬間というのが


あるはずだと私は思っています。






もちろん、真逆に

家族、友人、夫婦、親子、


小さな事でも優しさや温かさ、思いやりが積み重なって


当たり前の事に「ありがとう」と心から思える、



口にして言える日があるという事を


今日ここで私の文章を読んで頂いた方は、どうか忘れないで下さい。




今、まさにパートナーからのDVや親からの虐待、暴言などで


自分の家族はもしかして「機能不全家族」では?と思われた人がいたら


そもそも、その言葉の中身ってどんな?って興味を持ってみてください。





ネット環境がこれだけ揃っている今の時代です。


多くの情報が出てきます。




今から30年近く前では、AC(アダルトチルドレン)含め、


この言葉は深く知られていませんでした。



親のどちらかがアルコール中毒の家の子供だろ!?的な程度でした。


勿論、それも含まれます。





ただ、大人になってから生き辛いと感じる人の中には実は自分が育った環境が


当てはまっていた。となった時に


じゃ、どうすれば良いか?と、悩む人は大勢いらっしゃいます。



私自身もその1人です。




育った環境の中で、いつも周囲に笑顔でいること。


私の役割はピエロのようになって、笑わせたり和ませる事が


当たり前のように生きてきました。




思春期の頃には、家の中で、


鼻歌もダメ、音楽はイヤホンで聞く、声を出してはいけない。


という、訳のわからない環境の時もありました。




そんな私が言うのは説得力に欠けますが、


自分を不幸だと思い一生を諦めてしまわないでください。




私みたいな、メチャクチャな人生でも


生きていて良かったと思う事が


ゼロだったわけではありません。




生き辛さは長い旅ですが、


その旅の中で私に自死はなぜダメなのかという理由を


教えてくれた人との出会いが私を救ってくれました。





私は、今、その人の重荷にならないように


自分の足で、人並み以上にテンポは遅いと思うのですが


一歩ずつ前を見て上を見て歩くと決めています。





挫折した時には、一旦リセットする工夫も試行錯誤しています。



私のような人間を面倒くさいと思わず、


関わりを持って


励まし、助け、力を与えてくれ、エネルギーをチャージしてくれ、


道案内までしてくれた人に


1つでも多く安心してもらえるように


最後まで諦めないで頑張りすぎずに私の人生を送ろうと考えています。





どんな事にも、きっかけや、瞬間があると思います。


「瞬間」が見えたら、動く「時」です!!



私も歩き続けます!


大変な事、困難な事の中で頑張っている人達と一緒に!