私の裁判

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

孤独と承認欲求

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kodoku



前へ進もうとして真っ直ぐ前を向いているつもりでも、


脳裏のどこかで様々な事がチラつくと、


それまでの自信が半減してしまう事がある。



ただね、


過去の事を後悔したり、反省したり、怒りを持った時間を


無理して忘れようとするエネルギーが


無駄だと知ったおかげで、


そのエネルギーを


自分自身がどうしたいのか?何ができるのか?と


考えるエネルギーに貯蓄しようと思う日が増えてきているのが現状。





過去に辛い事があったり、


子供の頃の虐待、不運な事を経験してしまった人というのは、


どうやら?一歩進んで3歩下がるを繰り返してしまうみたいです。



執着をやめて過去に生きないを常に頭に置けるようになってからは


頻度が明らかに減った事は自分でもはっきりとわかる。


ただ、それがゼロになったわけではなく、心が葛藤する。







私は、もう人生の大半を終えているけれど、


私の娘は、人生の半分にも達していない。




私は、自分の事だけを考えて生きて良いと思う反面、


娘が私と距離を縮めようとする(しようと考えてくれている)


私との距離を一定に保とうとする時(しようと考えてくれている)


そのふらつく彼女の意思に、振り回されてしまう事が苦しいと思った瞬間、


私は何て非道な親なのだろう、と酷く罪悪感に苛まれる。







仮に親だという事を別の場所に置いたとして、


私のこれからの人生、どうしたい?と改めて考えると


安定なのか?冒険なのか?と、何だか極端な発想となる。




きっとなるようにしかならないのに。




なりたい自分になりたいと、どこかまだ断ち切れないでいる。


あぁ、何て面倒くさい自分なのだろう。





そして娘は、もう大人。


彼女は自分の人生を自分で歩んでいけば良いと思う。



私はと言えば、完璧でもなく親としてはゼロ点だったとしても、


私なりに十分苦しんで、出来るだけの事はやってきた(はず)


少なくとも、子供を虐待した事は無い。


どれを持って虐待と言うのかは、難しい問題だけれど。



彼女が幼い頃、


私が殴られたりしているところを見られてしまった環境に娘を置いた事を


虐待と呼べる事だってある。



私が希死念慮に毎日あった頃、娘はその親を見て苦しんだ。


それだって、虐待と言えば虐待になる。



私は、なぜ幸いにも自死が完了しなかったかと言えば、


今となってはやはり娘を想った。


勿論いつもそばにいてくれた犬くんの存在が大きかった。



どれだけ娘に申し訳ないと後悔しても、

過去には戻れない。


だからこそ、これからの人生を健康で多くの笑顔で過ごしているところを

見せたいと思う。


早く安心させたいから。

たったこれだけの事。


なのに、なぜさっさと叶わないのだろうね。





何度目なのか、もはやわからないけれども、


私自身の人生を歩むために後ろを見ず、前を見てしっかり歩めば何かにたどり着くはず。




そう思っている矢先、1人の時間を過ごして一息つくと、


あれ?私は何を目指していたのだったか?何をしたいのか?何が出来るのか?



全てを投げ出して、消えてしまいたいという漠然すぎて極端すぎる考えが頭に浮かぶ。


不健康な思考。(消えては浮かびを繰り返す思考)




何とかこうにか健康に生きていられて、囲いのある家で暮らしていて、


お腹が空いているわけでもなく。


誰かに蹴られる心配もなくお布団で眠れる幸せを忘れたのか?私。




これ以上、何を望んでいたのだっけ?

次に目指す道を見失いかけてる。



こんな私を応援してくれる人がいて、いったい何が足りないと言うのか。

贅沢すぎる。



大事な大事な犬くんを天国へ見送る事を果たし、


もう会えないのかもと思っていた娘と会える事になり。




ただ、


私の辛かった記憶を消してしまう=娘の怒り が解決しないまま。


娘もまた、孤独を感じている事が伝わってくる。



母子依存となりたくない為に、お互い必死なのだ。




親が年を重ね体のあちこちを悪くする事を見たくない娘。


親(私)の障害を認めたくない娘。




内心は寂しいけれど、私のことが見えない場所へ離れなさい。と言うほか無い。




スープの冷めない距離に暮らすことをもう考えてはダメだ。




私は、私の人生があって良いと考えよう。



彼女は彼女の良かれと思う道へ行くことを


頼りのない親だけれど、遠くで


見守ることは出来ると信じよう。





娘は私が何の安定も求めず将来のことを考えていないことに怒りを持つ。


安定を求めていないわけでは無い。


そういう気持ちや現状が上手く伝わらないのがもどかしい。



家族だと思うから、シンプルに会話が出来ないのかもしれない。



ただの知り合いなら?


いや、私は同じ言葉を発してしまうだろう。




私が誰かに受け入れられたいと思う事と反して、恐ろしく疲れてしまう。


承認欲求ほど無駄なエネルギーは無いと頭で理解しているのに。



ならば、誰とも関わらずにこのまま孤独でいるべきなのか?


疲れないだろう。


ただ思想も行動も自由だけれど一生が孤独なのだ。



1人でいる事を孤独と感じるのは、


自分が全てに対して諦めている証拠。



こんなのはダメだ。


1人は孤独じゃない。





よくわからないけれど、


純粋に私の進みたい道が必ず見つかる事を、もっともっと強く強く想ってみようじゃない?




今の私は

自己能力以上の事をやり過ぎて疲れ果てたような疲れかただ。





「疲れた」




素直に言葉にするとしたら、まさにこの言葉がしっくりくる。




去年から


Facebookをみる事もやめてSNSも極力数日に1度のタイミングで見たりするようになった。


その理由は、他人と自分を比較してしまう自分がいるから。





充実している他人。


特別な能力や才能をもっている人。


辛い中にあっても家族がいる人。


ありえない程のお金に埋もれて暮らしている人。


お金がなくても多くの愛情に包まれている人。



数えきれない。




2018年、


私はそうやって他人と自分を比較して落ち込むのも無駄なエネルギーだと思い知った。



だから、他人のリア充サイトを極力見ないようになった。



でもきっとこんなのは、ただの妬みに違いない。




私は行動に移しもしないで、ただ妬んで落ち込んでいるつまらない人間だ。




どうか、私の中にあるネガティブさが消えてほしい。





新しい年が始まったのに、私だけまだ年を越していないようじゃダメだ。



誰かを目指す事も、比較する事も、きっと私には必要のない事なのだ。




どうしようもない事だってある。


生きてさえいれば、きっと進みたい道が見つかると信じてみようか。ね、私。