"私の裁判"

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

誰のためにもならない文章

f:id:ecoplace:20180725072655j:plain

私は自分に障害があると認めたくないのは、

 

心のどこかで障害者を差別しているからでは無いだろうか?

だから、

私は彼らとは違うと無意識にそれが行動となって現れているのでは無いだろうか。

 

実は、久しぶりの鬱の兆候があって

その理由が私にはわかるようなわからないような、漠然とした苦しみだ。

 

生まれて初めての感覚では無いから

頭では理解できているはずなのに、意味の無いところで涙を流し

同じ場所で座り込んでいたとか、

今、自分が何をしようとしていたのかを忘れてしまっていたり、

1つの事に集中しなくてはいけない時に、10秒後には違うことをしている自分に

落ち込み、涙する。

 

 

どれもこれも初めてでは無いけれど、

早朝覚醒になったかと思えば

どれだけ早い時間に眠ろうと努力しても、眠れないまま朝を迎える事が多くなってる。

 

そうかと思えば、夜はきちんと眠れていたのに、

昼や夕方頃になって物凄い睡魔に襲われて、トイレで眠ってしまって

座ったままそこから落ちて目が覚め、時間を見ると20分くらいの意識が

全く無かったりする。

 

 

そんな自分が悔しくて、また泣いてしまう。

 

泣いてる自分がネガティブな人間に感じて落ち込む。

 

みんなが当たり前にできている事が私には何でできないのか?

 

私みたいな人間を必死で応援して支えて下さっている人達に対して

私はもっとしっかりして頑張りたいと願えば願う程、前へ進まなくて

薄明るくなる時間帯には、ふと自分がなぜここで生きているのか?

生かされていてごめんなさいと頭に浮かぶ。

 

 

ポジティブ思考を意識し初めてから、

日常の中で多くの変化が私には現れた。

 

それまで、顔にシワ1本無いほど、笑顔になる事が無かった私が

何があってもニコニコする習慣を意識的にするようになって

周囲の人達の言葉や態度も変わってきたことが嬉しくて

もっともっと頑張ろうと思えた。

 

私ができる可能性のある事を全て頑張ってみようと思っている。

実はまだ始めたばかりなのだけれど、

「瞑想」の中で不思議な呼吸法を真似てみたら、

喘息がピタリと止まったのだ。

 

それが嬉しくて、このままもう病院へ行く事も、

吸入を手に入れる必要もなくなるのでは?と、毎日の習慣となっている。

 

つい数日前、

パソコンが壊れてパニックになった。

私がそれまでそんなに意識していなかったような恐怖感とか不安感とか動揺。

 

パソコンがなくなるんだ・・・・

終わった・・・・。

 

そう思ったら過呼吸が始まって、苦しくて死ぬかもしれないと思えて

 

仕方がなくこういう時の為に病院から頂いている安定剤を口にした。

 

 

お守り代わりの安定剤だったのに。

 

飲まなくなってからは、毎月ゴミと共に捨てるようになっていたのに

 

数日前には私はそれを泣きながら飲んだ。

 

 

自分が嫌いなくせに?自分の息が出来なくなったら、お薬飲むの?

こんな時だけ自己防衛するなんて卑怯だ。


そして、息が安定した瞬間落ち込んだ。

お薬のおかげ。ありがとうございます。

 

こういう感覚が最後にやってきてからどのくらいたったのかな。

すっかり忘れていた感覚。

 

自分をどうやっても好きになれないと鬱が始まってから、

何度、自分は自分が大好きと口にしても、

髪の毛1本みても、吐きそうになる程、自分が嫌いで汚らわしい物体に思えてくる。

 

 

実は今、

私が務める職場には障害者枠で入社してきている人が数名働いておられる。

 

彼らは、私と同じ部署では無いけれど、たまたま休憩室で一緒になる事があった。

でも会話をした事が無かった。

名前も知らない人達。

 

ある時、ギリギリで職場へ到着した日があった。

その日のスケジュールを必死でメモしていた時に

私が背中を向けていたのにも関わらず、

わざわざ私の顔を覗き込んで「おはようございます」と言ってくださった人がいた。

 

びっくりして振り返ると、障害者の方のお一人。

 

私はまだ制服に着替えてもいなかったのに、

「おはようございます」と言って下さったのは、

私が今来たばかりだと理解しての挨拶を投げかけて下さったのだ。

 

もしかしたら、帰る時だったかもしれないのに、「おはようございます」と

笑顔で言って下さった。

 

挨拶をして下さったその人は、私が障害者だとわかったのかな。

誰一人として、私に障害があると知っている人は職場にはいない。

 

実は、私は人が私の後ろに立つと怖くなって座り込んでしまう事がある。

 

あの時、気づかなかったし、怖いと思わず自然に挨拶が出来たのは

びっくりして振り返った瞬間、相手が障害者の方だったわかったからかな。

 

帰宅してからずっとその濁った自分の心について考えて泣いて眠れなかった。

 

 

自分に障害がある事を隠すのは、単に説明が面倒くさい、時給が低くなる、

そんな理由だと思ってこれまできたけれど

障害者だと思われる事が嫌だったの?私は。

そういうことなの?そうなの?何度問いかけてみても答えがうまくまとまらない。

 

 

私はこれまで何で見ず知らずの障害者の方々に優しく接する事が出来たのか?

それは、私が心のどこかで障害者だから安全な人だという差別の気持ちが

あったのでは無いだろうか?

 

 

だとしたら、私は生きるに値しない最低な人間だと思う。

 

 

それをここ数日ずっとずっと考えて自分の鬱が再発してしまっている。

鬱もまた、目に見えない障害。

こんな時に限って、

「お金が無くて最悪な親だ」と言われた言葉が再び頭に浮かぶ。

「何で最低限の生活すらまともに出来ないのか」と娘に責められても

返す言葉が無かった。

 

1年が過ぎても、変わっていないじゃない、私。

犬くんの介護や病院代、日常の生活費、家賃、光熱費に追われる。

 

やはり、私には無理だったという事だ。

でもどうしてもどうしてもここまで来れたのに離れたくない。

 

どうにかして最期まで看取ってあげたい。天国へ送ってあげたい。

 

 

 

もう残り少ない時間と言われてからこの1年頑張ったその犬くんは

先週くらいから、明らかに更にも老いた事がわかる。

 

 

オムツをしてあげる時に、じっとしている姿や体を拭いてあげたり

洗ってあげる時には、もう立てないので、バスルームでは私の片手で支え、

片手だけで洗ってあげる。

 

生きる為に必要なお水や、ご飯の場所にすら自力で行く事が出来ない子を

置いて仕事へ行くしかない私の姿はまさしく鬼としか思えない。

泣きながらバイト先へ歩く。

到着するまでに涙を止めないと。それだけで精一杯。

 

ここで生きる為に最低限の収入が必要である事に変わりは無い。

それでも今フルタイムで働く事が出来ないでいてその結果、

生活費が足りないのであれば

犬くんにとっては結果悪い環境になるわけで、本末転倒になっている。

 

 

私の手を必要としているけれど、私はその手を振り払ってでも

働きに行き、恐る恐る玄関を開ける時、中で犬くんが一人で

亡くなっていたらどうしよう・・・そんな気持ちが辛い。

 

貧困でごめんね、でもママが一緒にいるから安心して天国へ・・・

と送り出す事が正しいのか?

 

ママが一緒にいられないのは、ここで人間らしい生活をする最低限の

お金が必要だから出て行くのよ。悪いけどあとは一人で

頑張って動けなくても待ってなさい。という事が正しいのか?

 

 

そんな極端な考えしか頭に浮かばずにただ泣いているだけという

限りなく弱い生き方しか私は出来ていない。

 

こんな私を助けて生かそうとしてくれている人達に対して

前向きに生き、ポジティブ思考で24時間いられない事がただただ申し訳ない。

 

果たして生きる価値があるのだろうか。誰のための人生なのか。

生きていてごめんなさい。そんな気持ちになる。

 

外が明るくなると、セミの声が聴こえる。

「今日も頑張ろうぜ」と言ってくれているみたい。

 

こんな私でも必死で頑張ってるんだけどね。

誰にも悟られないように明るく笑顔で10時間過ごし、

残りの14時間は泣いているというのは何だかとても疲れきってしまうのだ。

 

先週、仕事をまともに出来ない私に

お客様が英語で何かを言ってるけれどわからない、というので

売り場まで社員に連れ出されて一緒に走って行った。

 

それは、日本に売っていない商品だったので、丁重にお詫びして

いつかその商品が日本にも当たり前に売られてほしいと私は思っていると伝えた。

 

短い会話。だけど、「人」と会話をできる事が嬉しかった。

 

 

また別の日。

その時もまた英語圏の初老の女性の方。

恐ろしく驚く程、ポイントカードのポイントを多く貯めていたお客様がいらして、

何気なくポイント凄いですねと声をかけてみたら

実は、仕組みがわからないとおっしゃった。

 

登録をして、このポイントの数字は現金として使うことが出来ると説明したら

その女性のほうが驚かれて、こうやって説明してもらえたのは初めてよと

とても喜んで下さった。

どこで英語を勉強したの?と聞かれたので、

英語の勉強をしたことが無いことを伝えたら、英語圏で働けば良いのにと

言って下さった。(それはきっとお世辞の類だと思うけれど)

カナダで暮らしていた事があったと伝えたら、その女性のご主人の妹さんが

カナダで暮らしていると言って、どうりで訛りの少ない英語だと思ったわと。

 

むしろ、私は日本語訛りの英語で文法や語彙もわからないのですよと付け加えた。

それでも、その女性はとても喜んで帰って行かれたので嬉しかった。

 

そして、そのあと帰宅して、日本語も英語もきちんと理解できない自分に

再び落ち込み、涙を流していると、明け方。

 

その時間から眠ると翌日の夜に眠れないので、犬くんに合わせて

そのまま時間が流れる。

 

健康的には程遠い生活だ。

 

次から次に落ち込む要素が日常に襲ってくる事に対して、自分できちんと対処できず

負の連鎖から抜け出れない。

 

今の家で暮らせるようになって、1年が無事に過ぎたというのに

なぜもっと明るく笑顔で、純粋に感謝だけして次のステップへいけないのだろうか。

 

これ以上の幸せを欲張ると、ダメな人間になってしまうのではないかと怖くなる。

 

屋根があって囲いと安全な下で、犬くんと一緒に暮らす。

もうこれ以上のことを願ってはダメということ。

 

鬱になるのは、自分の責任。私がダメな証拠。

楽しいことを考えないから。 

もっともっと頑張って笑顔で過ごせる努力をしよう。

甘えてはダメ。自分に甘いのは絶対にダメ。

 

誰かのためになるような文章をここでは残そうと決めたのに、

ちっとも誰かのためになっていない。

 

早く自分の為に、犬くんのために、元気になりたい。