"私の裁判"

高等裁判所で裁判離婚したその後の人生(女ホームレスから自己破産→人生再生中←今ココ)

カウント

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帰る場所と出迎えてくれる家族のある人程強いものはない。


半分は事実だと信じて疑わない気持ちと、


半分は羨ましさからの気持ち。



考えすぎるところは「私」であって、良いとして。

誰かのブログを転々と読み続けていると

その人の一部にまでなって考えてしまう。

頭では

他人なのだから、その人の気持ちや人生にはなれないとわかっているのに。


読めば読み続ける程、

せっかくの休みでも

頭がぐったりと疲れる。


時には、涙が出たり、笑顔になったり、もはや自身の体はコリコリに緊張していて。


だけど、狭い場所で狭い自分の人生しか知らない蛙になりたくないわけで。



仮に今のところで人生を過ごすにしても

自分の前も後ろも横も斜めも観ていたいと思う。


ただ歩いているだけでも、

自分の後ろを観ない人っているでしょう?

ある意味幸せだと思う。


前しか観ないって足元は見えているのだろうか?!

物理的な事も、

人生観も白黒だけで考えたり結論は出せないけれど、

自分の定規を誰かに測ってもらうことは難しいって

10代の頃から思ってきた。



ただ最近ある人の人生を知って

自分にかすかな目標みたいなものが見えたっていうかな。

自分を過信する事も、卑下しすぎる事も

結果、自分にとって何ら良い事は無い。


自分の体を自分の意思では動かせなくなった時、

自分の人生は本当に幸せだったのかなって

そんな気持ち自体を起こしたくないなって思ったんだ。


自分の人生、幸せだったのだから、

今体が動けなくなった事は人生の終わりではなく

プロセスなのだと思いたいから。


私には、帰る場所が無かったから強くなれた事もあり、

弱かった事もいっぱいある。


誰かを頼る事も出来なかった分、強くもなれたけれど

弱かった自分もあった。


他人を批判したり、何かのせいにしてばかりで。


自分の境遇を恨んでもしょうがない。

少し。

ほんの少しだけれど、その目には観えない場所に

足を突っ込む事ができかけているような気がする。




私が私がと言い続けていたわりには、

いつも誰かの為だったり、何かのせいにして

人生に満足出来ていないまま生きてきた証拠が

今の私の頭の中ではいっぱいだ。


だから他人の文章を読むと、

自分に置き換えてしまったりして、とてつもなく疲れてしまうんだ。


馬鹿げてるって思われてしまうかもしれないけれど、

これが今の私で。



今日、お大根を切っていた時にふと思いだした。


今から25,6年前くらいのキッチンで元夫だった人の母親から言われた言葉。

「私ってなぜか数えながら切ってしまったりするんですよね」

それについて彼女は

「数えるのをやめなさい」

そこで会話は終わった事を思いだした。


そう、私は包丁で何か切る時でも、

何かを袋へ入れている時でも、心の中でカウントしてるんだ。
(してしまうという言い方が近いかも)


1, 2, 3, 4, 5, 6,,,,,,6は縁起悪いから7まで切って・・・・とか。


12にお大根が切れた時、日本語では「イニ」と読めるから13まで・・・・

13にお大根が切れた時、 13は縁起悪い数字だから14までにしようとか。


あぁ、もう何て面倒くさい疲れる自分なのだろう!!



自分で自分を疲れさせている事をやめればいい。

答えはわかってるんだ。

いつの日か、そんな事を考えずに

純粋にお大根を切る日が来ますように。